『舞姫』エリス=ユダヤ人説がありえない理由

「エリス=ユダヤ人」説の根拠は、エリスの住まいである古(アルト)ベルリン地区(*)にはユダヤ人が多く住んでいたという情報からきているようです。

(*)古ベルリン地区: ベルリン大聖堂とアレクサンダー広場の間の一帯。ベルリン発祥の地であるが、周辺エリアの発展とは逆に老朽化が進み、鴎外留学の時代には低所得層の住まう雑居地区となっており、第二次世界大戦時の空襲で壊滅。戦後は復興されることなくテレビ塔などが建つ広大な空間に。

古ベルリン地区にユダヤ人が多く暮らした時代もたしかにありましたが、『舞姫』の時代設定である、鴎外が留学した時代には、諸々の事情で状況が変わり、特筆するほどのことでもなくなり、ユダヤ人で賑わう「ユダヤ人街」があったわけでもありませんでした。
ユダヤ人の人口密度が高かったのはむしろハッケッシャーマルクト駅の以北の「ショイネンフィアテル」と呼ばれていた界隈。豊太郎の下宿の向こう側に広がるエリアで、それは古ベルリン地区ではありません。

 

にもかかわらず「エリス=ユダヤ人」説が浮上したのは、古ベルリン地区にはかつて、”Jüdenhof/ユーデンホーフ/ユダヤ館”と呼ばれる場所が2つあったことからです。

この2つのうちのひとつは写真も残っており、中庭を有しているところから、それが”ユダヤ人用のゲットーだった”と誤解され、「エリスはこの”ゲットー”内に住むユダヤ人だった!」とする説が生まれたのでした。

けれどもこのユダヤ館、ゲットーではなかったのです。

夜になると扉が鎖されるどころか、鴎外留学の時代には、ユダヤ人は一人も住んでいませんでした。
かつての歴史の名残りをそこに留めていただけ。
時代が移り変わっても、昔の名前で呼び続けられてきた、ただそれだけのことです。

 

その経緯を順に細かくご説明いたします。

 

まず大切なのはベルリンにおけるユダヤ人の存在です。

ナチスの時代のホロコーストについてはよく知られています。
ヒトラーが台頭する1933年、ベルリン市内には16万人以上のユダヤ人が暮らしていました。それが迫害に遭い、ベルリンで終戦を迎えたのはわずか6千人ほどだったと言われています。
けれどもユダヤ人迫害は、ヒトラーの時代だけの現象ではなかったのです。

ベルリンのユダヤ人たちはナチスの時代以前にも、何度も迫害に遭い、町を追われる体験をしています。

ベルリンのユダヤ人の歴史は、ざくっと大きく3つの時代に分けることができます。

第一期:1295年以前にベルリンに定住、数度の迫害に遭い1572年完全追放。
第二期:1671年交付の許可によって定住、ナチ時代の迫害により追放。
第三期:戦後から現在に至る

ベルリンはヨーロッパの他の町と比べるととても新しい町です。
ドイツ人(ゲルマン民族)がいつからこの地に住み始めたのかは、記録としては明確ではありませんが、1183年と刻まれた板が発掘されていることから、それよりさらに数十年以前には……と言われていますが、それでも800年あまりの歴史しかありません。

小さな集落であったベルリンが、「市」に制定されたのは1244年のことです(1237年の記述は、のちに共に市壁を築き、後年に「ベルリン」として統合した隣村ケルンが「市」に制定された年号)。

ユダヤ人がいつからベルリン市内に定住するようになったかを示す文書も、今のところ発見されていません。
もっとも古い記録としては、ベルリン市議会発行の都市台帳の条例の中に、1295年10月28日付にて、ユダヤ人の元で糸を購入することを禁じる織物工に宛てたお達しが残っているので、それ以前に定着していたことが分かります。
ベルリンが「市」になったときには、すでにユダヤ人も「市民」として暮らしていたのかもしれません。

といっても「ユダヤ人」は「ドイツ人」ではありません。
「ユダヤ人」は宗教による分類ですが、「ドイツ人」は国籍による分類です。
当時は政府が戸籍を管理しておらず、それは各教会に委ねられ、大雑把な言い方をすると(あくまでも大雑把な表現です。ご注意ください)、それはすなわち宗教(所属教会)によって民族や国籍が分けられているような状態で(民族と宗教が一致していた時代。ドイツに戸籍役場が設置されるのは1870年以降)、ドイツのキリスト教会の登録者(カトリックまたはプロテスタントの教会で洗礼を受けた者)がドイツ民族でありドイツ人で、それ以外は外国人。
特にユダヤ教信者であるユダヤ人は、1096年に行われた十字軍によるエルサレム攻撃以降、「救世主イエス・キリスト殺したのはユダヤ人」という反ユダヤ主義的感情が市民に広くいきわたり、忌み嫌われる異邦人の立場となり、小規模の迫害はいたるいところで頻繁に起きており、ベルリンにおいては1572年には町から完全に追放され、次に1671年に居住が許可されるまでの100年もの間、ベルリンは、「ユダヤ人不在」…ヒトラーの大好きな”Judenfrei/ユーデンフライ”の時代が続いたのです。

「ユダヤ館」と、鴎外留学の時代にそこにユダヤ人が住んでいない状態は、このユダヤ人迫害の歴史と大きく関わっています。

先に、「ユダヤ館」は二つあったと書きました。
それは「小ユダヤ館/Kleine Jüdenhof 」と「大ユダヤ館/Großer Jüdenhof 」。その大きさによって言い分けられていました。

そしてまた大ユダヤ館のすぐ横には、Jüdenstraße/ユーデンシュトラーセ/ユダヤ通りと呼ばれる通りもありました。

 

≪大ユダヤ館≫

1295年、初めてベルリンに転居してきたユダヤ人たちに土地が与えられ、そこにいくつかの家と(簡素な造りの建物であったと言われています)、シナゴーグが建てられ、ミクヴェと呼ばれる清めの水槽が設置されました。

ですが柵で囲ったわけでもないので中庭もなく、ゲットーの機能もありませんでした。

中世の時代、ドイツの他の町では、ユダヤ人居住区はゲットに―なっていましたが、ベルリンは中世も、また、どの時代においてもゲットーを持たなかった町として知られています。

この地図は1652年に作成されたものなので、住居区と通りがキッチリと分けて描かれていますが、中世の時代にはまだ空き地が目立ち、まともな道路もなかったそうです。

右側の丸く囲ったあたりにユダヤ人が住み始めたのですが、この場所は、”Jüdenhof/ユーデンホーフ”と呼ばれるようになりました。

「ユダヤ人たち居住区」という意味です。

私がこれに「ユダヤ館」という名を充てているのは、すでに発表されていた『舞姫』に関する論文の中にこの名称が使われていたからです。

ですが実のところ、「ユダヤ館」と訳すと、「一つの建物」というイメージを抱いてしまうので、誤解を招く危険性があることが気に掛かっています。

ドイツ語のホーフは、中庭を指すこともあれば、建物を指すこともあり、宮廷もホーフであるし、新しく建設する住宅群を「〇〇団地」や「〇〇台」といった名称にするときの、「団地」や「台」にもホーフです。
大ユダヤ館は、「ユダヤ人団地」くらいのイメージでそう呼ばれるようになったのです。

もしこのまま順調に歴史が刻まれれば、ここは名実ともに「ユダヤ人団地」に相応しい発展を遂げたことでしょう。

ところが、予想外の展開があり、わずか半世紀で「大ユダヤ館」の歴史は幕を閉じてしまうのです。

 

1348年にヨーロッパでペストが流行し、ついにはベルリンでも死者が出ます。

そこで、ペストを持ちこんだのはユダヤ人だとの噂がたち、ユダヤ人排斥運動が起き、ユダヤ人たちは住まいを追われ、町から追い出されてしまいました。

ようやくペスト流行の波が過ぎ、町が落ち着いてた1354年、ユダヤ人たちは再びベルリンに戻ってくることになりました。

けれども「大ユダヤ館」のかつての住まいにはドイツ人が住んでおり、明け渡してもらえなかったため、ベルリン市は最初に入ってきた数家族のために、別の住居を与えました。

これが「小ユダヤ館」です。

 

「小ユダヤ館」は、最初に入ってきたユダヤ人家族のためだけで、そののちに町に入ってきたユダヤ人たちは、一般住居に入居していきます。

「大ユダヤ館」に住まいは構えられずとも、そこにはシナゴーグがありますし、ユダヤ人にとってはベルリンにおけるユダヤ人居住区発祥の地です。そこで「大ユダヤ館」のあった通りに住まいを構えるようになりました。

何かあるたびに自分たちのせいだと言われ、ユダヤ人たちは身を寄せ合うようにして暮らしていたと言われています。そのためこの界隈にユダヤ人が集中し、「大ユダヤ館」の入り口の通りは「ユダヤ通り」と呼ばれるようになりました。

このときはほんとうに「ユダヤ人街」の様相を呈していたことでしょう。

 

ところが。
この歴史も200年後にブツリと終わりを告げます。

16世紀に再びユダヤ人迫害が起き、大ユダヤ館にあったシナゴーグは暴徒による襲撃を受け、1572年にユダヤ人は全員、ベルリンから追放されてしまいます。
次に許可が交付される1671年までの100年間は、ユダヤ人不在の町となるのです。

 

1671年に再び入居し始めたユダヤ人たちは、別の事情も重なって、「ユダヤ通り」に戻ることなく、ハッケッシャーマルクト駅の以北に定住するようになりました。

ユダヤ人との実際の関わりとは無関係に、「大ユダヤ館」や「ユダヤ通り」の名はその後も残りますが、こうして、ユダヤ人が集まる場所ではなくなっていったのです。

しかしながら上記の「大ユダヤ館」はゲットーのようでもあります。
けれどもこれはゲットーではないのです。

以下の地図をご覧ください。👇

これは1660年に作成された地図で、当時の住宅の形状が細かく記されています。

1660年は、1572年のユダヤ人が完全追放の後の年号です。
左手に「小ユダヤ館」は見えますが、右手の「大ユダヤ館」が見当たりません。

ユダヤ人が住んでいた時代、「大ユダヤ館」は名前だけで、写真のような中庭を持つ住宅群は存在していなかったのです。

 

写真に見る「大ユダヤ館」は、1750年ごろにドイツ人らが12軒の家屋を建設して完成した居住空間です。
(上述の1811年制作の地図には「大ユダヤ館」も見ることができます)
ドイツ人の居住空間ですから、門が施錠される「ゲットー」であったことは一度もなく、ユダヤ人が押し込められていたという事実もありません。数年前に地質検査が行われ、ドイツの手工業の職人が多く住んでいたことを証明する物品が多く土の中から出てきたようです。

 

≪小ユダヤ館≫

詳細は上述しました。

1348年にヨーロッパ各地で発生したペストによる風評被害でベルリン市内から追放されたユダヤ人が再び戻ってきたのが1354年。

「大ユダヤ館」に住むことができなかったために、あてがわれた住まいが「小ユダヤ館」です。
これは当時Geckoll/ゲッコルと呼ばれた中庭部分に属し、ゲッコル自体が特別監視下に置かれた居住空間で(勉強不足で詳細をまだ訳しきれておりません)、夜は外への通用門が施錠され警官が見張っていたといいます。「小ユダヤ館」はゲッコル内に置かれたので、夜間は通用出来ない、ゲットーのような状態でしたが、ここ以外に住まうユダヤ人たちは一般住居に住んでいました。

そしてここも、1572年の追放以降、名前だけを残す場所となりました。

再び住み始めたユダヤ人がここに入居することもありませんでした。

また、「小ユダヤ館」は、鴎外がベルリンに住み始める前である1886年に取り壊されたので、鴎外はその建物を見ることもありませんでした。

ちなみに、「小ユダヤ館」の解体は、都市計画の一環で、一帯は一斉に更地になり、新しいアパート群が建設され、奇しくも鴎外がベルリン生活のほとんどの期間を過ごした「第二の下宿」は、かつて「小ユダヤ館」だった場所に建てられたアパートの一室なのです。

 

なお、『舞姫』に出てくる中庭は、現在、一般的に読まれている『舞姫』本文には描写がありません。
「草稿」には次のように書かれていました。

寺の筋向ひなる大戸を入れば、
表家の後ろに煤にて黒みたる四階目にて
取り囲まれたる中庭あり
片隅には芥溜の箱あれど街の準には清らかなり

また、初めて発表された誌面には、次のように書かれていました。

寺の筋向ひなる大戸を入れば、
表家の後ろに煤にて黒みたる四階目層楼にて
取り囲まれたる中庭あり
片隅には芥溜の箱あれど街の準には清らかなり

この中庭は、一つのアパートの持つ(ロの字に建てるのが基本)中庭のことで、「大ユダヤ館」のような広場ほどの大きさをもった空間を指していません。

…というわけで、「エリス=ユダヤ人」説はありえません。

 

≪豊太郎とエリスの出会う教会≫

また、豊太郎とエリスの出会いは、教会の門の前で涙に暮れるエリスを見かけて話しかけたことに始まります。

エリスがユダヤ人であるなら、この寄りかかっていた教会も、ユダヤ教会でなくてはいけません。

ですが、鴎外の留学時代、ユダヤ人の生活拠点は、前述の、ハッケッシャーマルクト駅以北、豊太郎の下宿の向こう側のエリアに移り、オラーニエンブルガー通りに壮大な新シナゴーグが建設され、そちらが礼拝に使われていました。

旧シナゴーグは、所在地としては、古ベルリン地区内、エリスの住まいの近くではありましたが、1671年に再び入居し始めたユダヤ人らによって建てられたもので、当時は広い空間に単立する建造物として建てられたのですが、その後の人口過多により、住宅が建設され、鴎外が留学する頃には、周辺にアパートが建ち並び、アパートの中庭にすっぽりと入り込んだ状態になってしまったため、街路からはシナゴーグを見ることさえもできませんでした。

 

この点を見ても、「エリス=ユダヤ人」説はありえません。

 

また、『舞姫』本文には、エリスの容姿が描写されておりまして…。

「髪の色は薄きこがね色」
「青く清らにて物問ひたげに愁を含める目」
「乳の如き色の顔」などが見られます。

金髪、碧い瞳、真っ白な肌を持った少女…。
エリスがユダヤ人であると窺わせる要素はそもそも存在しないという…💦💦

 

そういった事情で、「エリス=ユダヤ人」説はどの点においても成立しないことを、ここにご報告申し上げます。

なお、『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』(講談社)においても本件について触れております。

併せてご参照くださいましたら。

六草いちか拝