(この記事は2008年4月23日にべるりんねっと789のコラムに掲載された内容を加筆修正したものです)
時計を見ると5時過ぎ。
ベルリンから強制収容所へと移送されていった子どもたちを追悼した列車展覧会«Zug der Erinnerung/追憶の列車»展の最終日。
グルーネヴァルト駅へと慌てて出かけた。
駅前に着くと、いつもとは違って人の往来が盛ん。
展覧会が行われている車両は「3番ホーム」に停車していると書いたポスターが掛かっている。
ホームへと上がってみると・・・。
うわっ。すごい人。ホームには人がぎっしりだった。反対側のホームは通常とおり使用されているが、そちらはたいした動きはない。ここにいるみんなは乗客ではなく、追憶の列車展への入場のために並んでいるのだった。
いちおう列の末尾に並ぶ。
5分、10分、動いたのは2歩分くらい。
「待ち時間1時間半だって」
どこからか聞いて来た人がそう言い、ため息をつく。
諦めて列車の前方まで歩いてみる。
客席は蒸気機関車につながれていて、一車両目が入り口で、最終車両が出口になっている。
出口から人が出てこない限り、入り口も入場させてもらえないらしく、入り口の前に立つ人たちもロープにぶら下げてあるメモを読んだりしながら気長に入場を待っている。
ぶらさがっているメモには、
「ユダヤ人は映画館・劇場・オペラ・コンサートを訪問してはならない(1938年11月12日)」や、
「ユダヤ人に石鹸や髭剃り石鹸の売ってはならない(1941年6月26日)」などといった、
ナチの時代に施行された、ユダヤ人たちに対する、今となってはなぜこれがまかり通ったのか信じられないような法律の数々が記されている。
蒸気機関車の部分に多くの花が手向けられているのをしばらくみつめてから歩き出す。
途中の窓から中のパネル展示の様子が窺えた。
そして列の末尾まで戻ってみると、さっき自分が居た位置と、さっき自分の前に立っていた人が今立っている位置は、1mほどしか違わない。
これでは1時間半ほどでは到底入場できないだろう。
家人の一人が脚を手術したばかりで松葉づえと車椅子を使っていた。展覧会は今日が最後であったから無理して出かけてきたが、階段があるため車椅子は使えず、松葉づえでホームに上がってきていた。
長時間立っているわけにもいかないので車内展示への入場は諦めて、17番ホームを見学して帰宅することにする。
混んでいて入れなかったのに、混んでいた=興味を持った人がそれだけいるということを考えると何か嬉しい。
ホームの階段を下りると、花を一輪携え階段を上ってくる婦人とすれ違った。
グルーネヴァルト駅の17番ホームは現在は使われていない。
しかし「Gleis17/グライス・ジーブツェン/17番ホーム」という名を持ち、ベルリンっ子の誰もが苦い記憶として留めている。
1941年~45年の4年間、ユダヤ人をはじめとする、かつてナチスが忌み嫌った「人種」5万人以上を強制収容所へと送り出すための専用ホームとして使用されていた。
Litzmannstadt (Lodz)/リッツマンシュタット(ウッチ)、Riga/リガ、 Auschwitz/アウシュヴィッツ、Sachsenhausen/ザクセンハウゼン、Theresienstadt/テレージエンシュタットやまた他の地に。
今は朽ち果てたまま追悼の場としてのみ残されている。
ホームだった場所には鉄の板が敷かれ、板には、いつ、何人のユダヤ人を乗せ、どこの収容所へ向かったかが刻まれている。
線路はそのまま残っているが、あいだから雑草が生え、線路の間に木が伸びて雑木林になっているところもある。
ここにも何本もの花が手向けられていた。
社会見学にやってきた子どもたちのものだろうか。ちぎったノートに書いた走り書き、ところどころに置かれている。
石だけが置いてあるのは、墓参りのたびに墓石に石を乗せるユダヤ人の習慣から来ているのかもしれない。
一枚のメモを覗き込む。
この人たちがこんなに苦しんで死ななければならなかったことに痛みを覚えます。
私たちは彼らのことについて考えたい。
そして彼らのことを決して忘れない。
メンディ、ジョイス、メラニー、ジェニファー
六草いちか