ベルリンと、オートバイと、日曜日と。

(この記事は、べるりんねっと789のコラム ‐ 2015年10月11日掲載 – に寄稿した内容を加筆修正したものです)

秋の始まりのある日曜日。
お天気も良いので出かけることに。

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オートバイに乗って。…といっても私が座ったのは後部座席だが。
シュパンダウ区のオリンピックスタジアム前の広場に集合し、みんなで連なって出発した。その数1000台以上。
ツーリングというわけではない。
なにかを訴えるデモでもない。

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そのうちクーダムに差しかかる。
今日は日曜ショッピングの日だが、オープンは午後13時(これも市の条例で決まっている)。それまでまだ数時間ある。ウィンドウショッピングを楽しむ人々の姿がちらほら。

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1000台が2列で走行するのだから、かなりの長さ。白バイ(ドイツではシルバーバイか、ブルーバイ??)が護衛に随いている。
一般市道の制限速度は時速50kmだが、この日の速度は時速30km以下。クーダムのお店の一軒一軒がよく見える。
あ。

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「クーダム195」だ。
カレーヴルストのお店。
某有名シェフに、ベルリンで一番美味しいカレーヴルストのお店はどこかと聞いた時、彼は迷わずここをご指名。

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※このカレーヴルストとポメス(→フライドポテトのことをベルリンではそう呼んでいる)の画像は、ドイツ映画字幕翻訳家の吉川美奈子さんからお借りしました。

カレーヴルスト好きで有名なシュレーダー元首相もここの常連。
セレブが通うカレーヴルスト店としても有名で、立ち食いスタンドなのにゼクト(ドイツ産シャンペン)があり、ベンツやBMWなど高級車で乗り付ける客も多い。
…あ。

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ハードロック・カフェ。
昔はマイネケ通りにあったがこの角に越してきて何年になるだろう。

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見えてきた。ベルリンの広島ドーム。カイザー・ヴィルヘルム記念教会。
戦前はこんな立派な教会だった。
それが戦時中の爆撃で、戦後にはこのような状態に。
それでも戦後も日曜になると、大勢の人が集まって、廃墟の中で礼拝をしたという。

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そして見えてきたベルリンのご自慢、老舗デパートKaDeWe/カー・デー・ヴェー。
„Kaufhaus des Westens/西のデパート“からの略称。 1907年創業。
世界の善きものの博覧会と言われるほど、世界の高級品ばかりを品揃え。ドイツで最も格式のあるデパートと言われている。
地下がなく、「デパ地下」にあるはずの食料品は、なんと6階に。

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KaDeWeの正面玄関。
閉館中だけ見ることができる門扉が大変美しい(バス停マークとBSRのゴミ箱が著しく邪魔だが)。
創業者はユダヤ人、アドルフ・ヤンドルフ氏。
すでに6つのデパートを経営していたヤンドルフ氏は、7軒目となるKaDeWeは世界中のお客様を迎えるに相応しい店にしたいと考え、ドイツ最大規模に。創業当初から最高級品ばかりを取り揃えていたという。
ナチ党が台頭する20年代、ユダヤ人迫害は既に始まり、27年にはデパートを手放すことに。
その翌年にヤンドルフ氏は盲腸炎で逝去したが、家族は外国への移住に成功し命だけは助かったという。ヤンドルフ氏はヴァイセンゼー区のユダヤ人墓地に眠り、ベルリンは戦後になってから、ヤンドルフ氏の市の発展への功績を称え、名誉市民の称号を与えた。

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地下鉄ヴィッテンベルク・プラッツ駅。
1902年3月11日に開通した。
(走行中にシャッター切るので傾いでいる。ご容赦を~)
石造りの重厚な建物で、内部も木製の切符売り場などがレトロで美しい。

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けれども残念ながら、完成当時からそのまま残っているというわけではない。
第二次世界大戦の爆撃で著しく破損し、戦後に再建されたものの、当時は現代風な内装が施され、82年になって戦前の状態に復元されたのだそうだ。
そんなわけでオリジナルではないものの、ひとたち駅構内に足を踏み入れると、タイムスリップしたように、ベルリンの20世紀初頭の華やかさを体感できる。

駅の入り口右手の看板はホロコースト記念碑。

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ベルリンの老舗デパートKaDeWeから地下鉄駅ヴィッテンベルク広場駅に向かうと必ず目にすることになるこのモニュメントは、ナチ時代にヨーロッパに設けられた強制収容所を列記したもので、作成されたのは1967年と、ドイツの一連の戦争責任を表明した記念碑(追悼碑・慰霊碑)の中では珍しく早い時期に作られたが、当初は人目に付かない、駅の「裏側」に当たる場所にひっそりと建てられていたそうだ。現在の場所に移されたのは1985年7月になってから。
この80年代の、ドイツにとって大きな転機を迎えるきっかけとなったのが、まさしくヴァイツゼッカー元大統領。1985年5月8日に行われた、終戦40年にあたっての演説だろう。

 

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クーダムを走り終えたら右折し、マルティン・ルター通りを南へ、南へ。
合い間に、昔住んでいたアパートを垣間見えたが、シャッターがうまく切れなかった。
そのうち見えてきた、シェーネベルク区の市役所。

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冷戦時代、ここは西ベルリン市の市庁舎だった。
ダラスで暗殺される5か月前の1963年6月26日、ケネディ大統領が演説した。
そのときの„Ich bin ein Berliner/イッヒ・ビン・アイン・ベアリナー“のフレーズは、世界的に有名に。
直訳すると「私は一人のベルリン市民です」だが、この名言が登場するのは、演説の締めくくり。
„Two thousand years ago — Two thousand years ago, the proudest boast was “civis Romanus sum.” Today, in the world of freedom, the proudest boast is “Ich bin ein Berliner.”
この内容から察するに、„Ich bin ein Berliner“は、「私はベルリン市民です」と訳すのが妥当か。
演説の映像はこちら。  ちなみに、„Ich bin ein Berliner“を「私はひとつの揚げパンです」と訳す説があるのは、ベルリンで大晦日に食べる「年越しドーナツ」が “Berliner“と呼ばれていることから。けれどもそれはベルリン以外の町のことで、ベルリンでは“Berliner“とは言わない。「ベルリンっ子がベルリンっ子を喰う」なんて、共食いになってしまうからね。ベルリンでは“Pfannkuchen/プファンクーヘン”という。
ご当地ではそう呼ばないというケースはけっこうある。ベルリンでよく売っている、「アメリカーナ―」と呼ばれる甘パンがあるが、あれもアメリカではそうは言わないらしいし、そもそもこんなパン、存在さえしないのかもしれない。…ではハンバーガーは??

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ここはフリーデナウ区。私がベルリンで初めて住んだアパートもこの近く。懐かしい~。
道路の路面に見える青い3本線は、ベルリンマラソンのコースを示す線。
この線を追いかけると42,195 kmを無駄なく走れる、理想ラインだそうだ。
この3本線、マラソンはたった一日だが、その後も何か月経ってもずっと消えない。なのに翌年のマラソンの始まる直前には消えているという、謎の塗料。

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シュテーグリッツ区のシュロス通り。ベルリンにまだ壁のあった時代、クーダムに次いで、西ベルリンで2番目に大きい繁華街だった。
現在は、デパートはカールシュタットひとつになり、どこもショッピングモールに変わってしまったが、10年ほど前までは3つもあった。
前方右手に見えるのは「ビアピンゼル(ビールの筆)」と呼ばれる、軸にタワーの展望台だけを乗せたような奇怪な建物。70年代にはモダン建築として脚光を浴びたが、近年、老朽化が目立ち始め、それを隠すために彩色したところ余計にミゼラブルな状態に。

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“Botanischer Garten/ボターニッシャー・ガルテン/植物園“の前を通過。
この植物園は植物学者アドルフ・エングラーの „Die Welt in einem Garten“のコンセプトのもと造園され、1889年にオープンした。
43ヘクタールの敷地に22000種の植物が植えられている、ドイツ最大の植物園。
ちなみにここの温室、郷ひろみ主演の映画『舞姫』の、エリスと豊太郎のデートシーンとして登場する。
しかし植物園ができたのは1889年、鴎外が留学から帰国した翌年であるから、鴎外はこの温室を見たことさえない。
そういう意味では、滝でのデートシーン、あの滝は人工のもので、完成したのは鴎外が帰国した後だから、鴎外はあの滝も見ていない。
とはいっても、どちらのシーンも、情緒豊かに、とてもうまく撮れている。

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どんどん先に進み、ツェーレンドルフ区に差しかかった。
拙宅の近所を通過。
40分ほどかけて、わざわざ集合場所のオリンピックスタジアムへ向かったが、ここで合流できたのか…。

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ツェーレンドルフ区をどんどん進む。緑もどんどん深くなる。

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Sバーンの高架を抜けるとヴァンゼー区。
左右に広がるヴァンゼー湖。
橋の右側(画像)に見えるのは「大ヴァンゼー」。
左側は「小ヴァンゼー」。
ここを「湖」と呼んでいるが、実はこれはハーフェル川の一部で、本来の「周りを陸に囲まれ、静止した水が溜まっている場所」という「湖」の定義からは外れる。
小ヴァンゼーの湖畔にはドイツを代表する劇作家ハインリヒ・フォン・クライストの墓がある。
クライストは33歳の若さでピストル自殺を図ったそうだ。
人妻と。
1811年というから200年以上も前の話。
その当時はこの小ヴァンゼー湖、“am Stolper Loch“と飛ばれていたそうだ。「つまづきの穴」。「石」ではなく「穴」。

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ヴァンゼー湖を越えた角に見えてくる看板。
右折し、湖畔に沿ってずっと奥へといくと、まず見えてくるのが“Liebermann-Villa/リーバーマン・ヴィラ“。マックス・リーバーマンの夏の別荘。 リーバーマンは画家であり、芸大/Preußischen Akademie der Künsteで教授を務めていた。ブランデンブルク門横にある学舎はガラス張りの現代建築だが、リーバーマンの時代はこんな建物だったそうだ。

リーバーマン・ヴィラの前をそのまま通り過ぎ、奥へと進むと、ヴァンゼー会議が行われた“Haus der Wannsee-Konferenz/ヴァンゼー会議の館“が見えてくる。
1942年1月20日、ここにヒトラー政権の高官15名が集まり、ユダヤ人の「最終的解決」について話し合った。
現在は資料館となっている。
ここには先月、ドイツ映画の字幕翻訳家、吉川美奈子さんと訪問した。吉川さんが館内の様子をブログで紹介なさっている。こちら

そんなことを思い出しながら、どんどん先に進むと…

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「“Steinstücken/シュタインシュトゥッケン村“はこちら」の看板。
シュタインシュトゥッケン村は、ベルリンに壁があり、壁に囲まれた西ベルリンの町が「陸の孤島」と呼ばれていた時代に、「陸の孤島中の孤島」と呼ばれていた。
戦後、戦勝国がドイツの土地を取り合ったことから壁の悲劇が始まるのだが、シュタインシュトゥッケン村はソ連軍が取った陣地の中にありながら、アメリカ軍が死守したエリアだった。壁が出来た後、西ベルリンの周辺にはそういった「飛び地」がいくつもあったが、壁で囲まれ行き来もできなくなり、多くは土地の交換で相殺された。しかし、シュタインシュトゥッケン村に関しては、米軍は固執し続け、1971年に他の飛び地を手放して車道一つ分の土地を手に入れ、西ベルリンとシュトゥッケン村とつなげた。
1kmにわたって、一車線ずつの車道が走るだけの幅20mの道。両側には、4mほどの壁がずっと伸びていたから異様そのもの。
航空写真はこちら
設置当初は話題となり、(西)ベルリンっ子たちが物見遊山にやってきたらしいが、私が住み始めた88年には、いつ行ってもひっそりと静まり返り、この通りに立つたびに(なぜだか時おりここに来ていた)、「もしもう一度戦争が起きたら、誰が私たちを守ってくれるのだろう」と不安に駆られた。

ちなみに、シュタインシュトゥッケン村について、西ベルリンの子どもたちは歴史の時間でも習うらしく、西ベルリンっ子はみんなその名を知っていた。しかし西ドイツでは知名度ゼロ。それでベルリンでは、相手が西ベルリン出身かどうか知りたいときは「シュタインシュトゥッケン村を知っている?」と訊いてその反応で判断していたそうだ。

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そしてどんどん先に進むと、そろそろ「ベルリン」の「際」に差しかかる。

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前方に見えるはグリーニッケ橋。
ベルリンとポツダムを結ぶ橋だが、壁の時代、ベルリンは西、ポツダムは東、東西を結ぶ橋でもあった。
橋としては東西を結び、ブランデンブルク門前のように橋の前に立ちはだかる壁もなく、国境検問所のような小屋もあったが、チェックポイントチャーリーのように越境することができなかった。

壁の時代、このあたりまでよく遊びに来たものだ。森に散策に出かけたり、橋の横から遊覧船に乗ってみたり。
グリーニッケ橋のたもとに船着場があり、遊覧船で川遊びができた(これは今もある)。
ベルリンの壁は、西ベルリンを取り囲む外側の壁・内側の壁の2重構造になっていて、二つの壁に挟まれた地帯に足を踏み入れた東からの亡命者は、容赦なく射殺されたことから「死の境界線」と呼ばれ、300ほど監視塔が並んでいた。塔の中には常に2,3人の兵士が立ち、双眼鏡で周辺を見渡し、壁に近づくと必ず兵士と双眼鏡越しに目が合ったものだ。
ところが、このグリーニッケ橋のところは、川の真ん中が境界線で、川の中に壁を建てるわけにはいかず、内側の壁も監視塔も存在しなかった。 そのため現在のような川幅がそのまま見渡せたが、遊覧船で川の中ほどまでくると、ブイが並んで浮いていた。それが東西の「国境」で、そこには、「ここまではアメリカセクターの領域。その向こうで起きたことに対して守ってあげられない」といったことが書かれた看板が括りつけられて、一緒に波に揺られていた。
ここにも国境が…と思いながら東のほうに目をやると、水辺に緑地が広がり、鶴なんかが飛んでいたり風光明媚。さすが人を寄せ付けない場所だ~などと感心していると、あれ?? と気づくものがある。目を凝らすと、潜水艦のようにも見える灰色の地味な船が浮いていて、そこに双眼鏡でこちらを見ている兵士の姿が。
どこにいても監視されてる…と、川遊びに来たのに陰鬱な気持ちになったものだ。

…などと彼の日を思い出しながら先に進むと、橋の手前にパトカーと夥しい数の白バイが待機していた。

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国賓の表敬訪問? それとも…事件?!
大いに心を騒がせたが、そのうち真相が分かった。
これはオートバイ軍団の護衛をしていた警官たちだった。
橋の手前で「ベルリン市」が終わり、橋の向こうは「ポツダム市」。
市も違うが、「ベルリン市」はベルリン州の都市で、「ポツダム市」はブランデンブルク州。州も違うから、警察の管轄も州のやりかたも異なる。
ベルリン側の警察隊はここで待機し、バイカーがみんな橋を渡るとお役御免となるわけだ。

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白バイは橋の手前で左へと旋回し、バイク野郎は前進する。
ベルリンに壁のあった時代、橋の向こうはポツダム市。東ベルリン市内は、国境に行けば、一日ビザが発行され、その日一日、自由に見て回ることができたが、ポツダムはブランデンブルク州に属しベルリン市ではないから、事前にビザの申請が必要だった。グリーニッケ橋は閉鎖されているから、まずはフリードリッヒ・シュトラーセ駅の国境から東に入り、列車を使って西ベルリンの外側を回り込んでこなければならない、ポツダムは西ベルリンにとって、とても近くてとても遠い町だった。

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そしていよいよ旧国境・現県境であるグリーニッケ橋を渡る。
この橋は、壁のあった時代から、スパイ交換の橋として知られていた。
厳冬の夜中、東側で捕まった西側のスパイと、西側で捕まった東側のスパイが交換されたとのことだった。
東西が再統一した今、当時の「極秘情報」が一般にも公開された。
①1962年2月10日、②1985年6月11日。③1986年2月11日と、スパイの交換が行われたのは28年間でわずか3回。しかも2回目は厳冬どころか真夏。
年末年始にかけて、この橋を舞台にしたハリウッド映画„Bridge of Spies“のロケが行われていたが(ロケの様子を報じたビルト紙。その①その②、先日ついに完成し、アメリカ・ニューヨークでプレミエ上映が行われた。 ドイツでの公開は来月。公式サイト予告編

ちなみに、この橋、緑色をしているが、橋の真ん中を境に、緑色でも色あいがビミョ~に違う。橋の真ん中が市の堺で、州の堺、それぞれが塗装したら、「緑色」の見解に相違が出てしまったということらしい。
前出の吉川さんとこの夏にこの橋も見に来ている。橋についての写真が吉川さんのブログにたくさん掲載されている。こちら

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橋を渡ってポツダム市に到着。
警察の護衛が一切ない。これも州の見解の違いか??
1000台もが連なり、信号も止めなきゃいけないだろうに、事故が起きないかと、少し心配だったが、大きな交差点だけ交通整理がおこなわれていた。

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これはなんだろう…と思いながら通り過ぎる。
(いま確認するとポツダム市城だった)

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こんな像の前も通り過ぎる。
(いま確認すると、プロイセン軍を教育したことで知られるFriedrich Wilhelm von Steuben/フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュトイベン大将の像だった。

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こんな飾りの前を通り過ぎ…
これは何だったのか今も謎。ご存じの方はご一報を。

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そして旧市街へと入り、

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オランダ街にさしかかって…

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教会の前に出た。
あ。
ここはたしか、この夏にも見た景色…。
日本からいらしたあるご夫妻と一緒にやってきて、偶然この教会の前まで来て、教会の名を聞かれて、答えられなかったのだ。
今日は、以前に住んでいたアパートや思い出の詰まった場所を走り、この夏に行ったばかりの場所をおさらいするように巡っている。
不思議なものだ…と思っていたら、ここが今日の目的地だと聞かされた。

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教会の前の広場に、ぞくぞくとオートバイが乗り込んでくる。

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広場はたちまちのうちにオートバイで埋め尽くされた。
そしてみんなで教会に入って行った。

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今日は、ベルリンとブランデンブルク州のバイカーたちが一緒に教会に行く日。
1974年にクーダムで起きたオートバイ事故がきっかけで、毎年1回、合同走行&礼拝が行われるようになり、今年で41回目。
毎年、オリンピックスタジアム前の広場に集まり、教会までツーリング。教会は、クーダムのヴィルヘルム記念教会やウンター・デン・リンデンのベルリン大聖堂教会など、毎年異なり、今年はポツダムのこの教会で開かれた。

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プロテスタント・カトリック合同礼拝で、合間に、この1年にオートバイ事故で亡くなったライダーの名前と年齢が読み上げられ、その死を悼み、遺族に慰めと励ましがありますようにと祈りを捧げた。

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この1年にバイク事故で亡くなったライダーは、ベルリンで7人、ブランデンブルク州で22人。
一人一人の名前と年齢が読み上げられ、17歳や19歳と、若い年齢が聞こえるたびに、戸惑いと苦渋の混じった、なんともいえない吐息が礼拝堂に響き渡った。
次の礼拝にはこの悲しみがありませんように。

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オートバイというと、暴走族のイメージも付きまとい、実際、コワイ顔をしたオジサンもけっこういて、とっつきにくい気がするが、意外に、地がしかめ面なだけの、単なるメカ好きだったりする。
日本ではF1レースに興味を持つ人はあまり多くないが、ドイツではレース中継が高視聴率を誇っている。EU統合でマイスター制度が緩くなってしまった今も、職人技は評価され、工事現場を見に出かける人も多く、ドイツ人はモノ作りやメカが大好きなのだ。
2001年に、べるりんねっと789のオンラインマガジンで、バイク野郎のたまり場、Spinnerbrücke/シュピナー・ブリュッケ/イカレ野郎たちの橋を取材したことがある。当時の記事はこちら

というわけで、バイカーたちと教会へ出かけた日曜日。
この教会、St. Peter und Paul/聖ペーター&パウル教会という名まえ。
礼拝が終わると、安全運転を声掛け合って、三々五々、ブリブリ言わせて帰って行った。

一緒に参加した知り合いが、お茶して帰る? と誘うので同意すると、提案されたのはゼーハーゼ。ヴァンゼー会議の館の先にある湖畔レストラン。そこもこの夏、吉川さんとランチをした場所ではないか。
1011_38ゼーハーゼの横にあるヨットハーバーにボートを持っているから、ゼーハーゼでコーヒーを出してもらって、船に乗るか桟橋に座ってお茶しようということだった。
優雅なような、そうでないような、ビミョーなお誘い。

…というわけで、帰りに桟橋に腰かけ一盞の珈琲を頂いた。
かの夏の日は萌えるような緑樹を湛えていたヴァンゼー湖畔も、すっかり秋の色になっていた。

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