不発弾と瓦礫の女たち

昨日、ベルリンのお隣の町、ポツダム市の中央駅付近で工事現場から不発弾が見つかり、今朝、撤去作業が行われた。
見つかったのは250キロ爆弾。第二次世界大戦時に米軍が投下したものらしい。暴発すると大事故となるため、近隣住民は避難することに。
爆撃に遭ったのは70年以上も前のことだというのに、ベルリンでもいまだに頻繁に不発弾が出てくる。
昔、我が家が貸庭を借りていたとき、譲渡の際に不発弾チェックが言い渡された。ある時期から、戦後、不発弾チェックを行ったことがない土地は、オーナーが変わる際、工事の予定がなくともチェックを行うようにと義務付けられたとのことだった。費用は市が払うという。何をするのかイマイチ分からないまま見守っていたら、庭のほとんどが掘り起こされた。畑としては耕してもらえてラッキーだが、花壇は全滅、芝生は一時避難させ、元に戻すからパッチワーク状態。何メートルも掘り起こして、出てくるは、出てくるは。ガラス瓶の破片、電柱の磁器の部品のようなもの、曲がった鉄から、なんと自転車まで(乗れないよ。錆た鉄が自転車の形をしていただけ)。戦後に適当に埋めて庭にしてしまっていたのだろう。ありがたいことに、危険なものは、銃弾がお皿にいっぱいほど出てきただけで、空から降ってきたような大きな爆弾は出て来なかった。
不発弾が見つかると、グルーネヴァルトの処理場に運ばれる。庭から出てきた銃弾たちもきっとそこに運ばれていったのだろう。町中から不発弾が集められ、ある程度の量になると爆破処理される。それは水曜日と決まっていて、たいてい10時をすぎから行われる。爆破前後は、近隣を走るアウトバーンAVUSのヒュッテンヴェーク/ニコラス・ゼー間も全面通行止めとなる。
森を散歩していてその爆音を聞いたことがあるが、爆音が鳴り響いたのは遠く向こうのほうだったが気圧が瞬間変わる感じがした。
ちょうど爆破処理の行われる時間帯にアウトバーンを走ろうとして交通規制で入口付近で待機したことがあるという人によると、ボンという鈍い音とともに、一瞬、車が宙に浮いたそうだ。
爆破処理のことを知らずにいたので、何が起きたのかかなり驚いたとのことだった。
しかしこの爆破処理はツェーレンドルフ区の風物詩のようなもの。終戦から70年も経つというのに。

ベルリンの町は第二次世界大戦時に甚大な被害を受けた。
住宅地で旧建築と現代建築が混在していたら、そこは爆撃の被害に遭い、旧建築は奇跡的に助かったかなんとか修復できたもので、現代建築の場所にかつてあった建物は壊滅したため今の建物が建ったと解釈して間違いないだろう。
ベルリンの都心部にあたっては、街の90パーセント以上が壊滅した。
空爆だけではない。終戦を迎える前の2週間は、壮絶な銃撃戦が繰り広げられた。住居を盾に闘う赤軍とドイツ軍。その合間を逃げ惑う市民たち。1945年5月2日にベルリンが陥落し、戦争は終わったが、女たちにとって屈辱の2週間が始まる。赤軍が町を占拠し、暴行や略奪が繰り返された。ベルリンの女性の8割が強姦されたと言われている。
戦後残ったのは、瓦礫と出征した夫の留守を守る女たちと疲労と絶望……。
ベルリンには“Trümmerfrauen/トリュンマー・フラウエン“という言葉がある。直訳すると「瓦礫の女たち」という意味だ。瓦礫の女たちがベルリン再建の礎になった。何をしたのかは、インターネットで「Trümmerfrauen」と書いて画像検索してみればすぐさま理解してもらえるだろう。
ノイケルン区の市民公園フォルクスパーク・ハーセンハイデに、金づちを持ったオバチャン像が建っている。これは「瓦礫の女たち」の記念碑だ。帰りの遅い夫を待つカアちゃん像ではない。
廃墟と化したベルリンの町で、絶望の中から、それでも生き続けようと決心し、立ち上がったのは女たちだ。金づちを持って。
……と、隣町で不発弾が見つかったことから「瓦礫の女たち」記念碑にまで話が飛躍したが、今年は終戦70年。
あの恐怖が二度と起きないために、あの過ちを二度と起こさないために、戦争のことを振り返り、改めて考える一年となるはず。