「ソルト・ファーム 塩工房」の女性にいざなわれ、歩いてきた通りを戻るように歩き始めた。
女性の名前を小出史(こいで・ふみ)さんという。
けれどもそれを知ったのはずっと後、名刺交換をしたのちのこと。
このときお互い名前を知らず、呼び合うこともしなかった。
けれどもこのあといろいろな人と巡り会ってゆくことになるので、ここでは「史(ふみ)さん」と書くことにする。
史さんは、まずは和装履物のお店、武蔵屋に連れて行ってくださった。
けれども店主がちょうど不在だったので、後でまた訪ねることにして、先に「まちなみトラスト」に向かうことに。
私が唐人町通りに辿り着いて最初に見た家屋のことだ。
看板のとおり、そこは「立ち寄りどころ」になっていて、この界隈の情報を得ることができるそうだ。
それをきっかけに町の歴史が話題に。唐人町は、かつて町屋が立ち並んだ華やかな通りで、震災前はもっと多くの家屋が残っていたとのことだった。
以下は、史さんが用意くださった唐人町めぐりのパンフレット。唐人町のお店で無料配布しているそうだ。
三つ折りのパンフを広げると、当時の様子が窺える。
この界隈の商人たちは、通りのすぐ北を流れる坪井川から船で商品を運んで荷揚げしたそうで、そのため、ここの町屋では、どこも川べりに半地下の倉庫を持っているのだそう。
史さんにとっても唐人町は馴染みの土地で、塩の専門店を開こうと思った時、唐人町で物件を探し、今のところに落ち着いたのだそうだ。塩に興味を持ったのは、通詞島の塩づくりを取材したのがきっかけで、お店を出す前はテレビ局のアナウンサーだったと、史さん。
あまりにさらりとおっしゃったので、驚いた表情を見せないように努めたが、なるほど美人なわけだ~と、心の中では大納得。
しばらく歩いて、「まちなみトラスト」に辿り着いた。
これはボランティア活動の一環で、メンバーが持ち回りで案内係を務めるそうだ。今日は、中島さんというチャーミングな女性がお当番。
中島さんが「まちなみトラスト」の内部を案内くださった。
家屋の内部は二分されていて、右半分はブティックに、左半分が「まちなみトラスト」のオフィスに使用されている。
内部は、写真では明るく撮れたが、実際には薄暗い中に外からの光が差し、蔵の中を覗くような面白さ。
地震で外壁が剥がれて穴が開いてしまい、外の光が漏れている部分がある。
トラストの中にはカフェスペースもあるが、給湯設備は無事だったものの、砂埃がひどいため、現在はカフェが休止中だそうだ。残念。
中庭に出て振り返ると、表からは想像できないほどのダメージを受けていた。
中島さんは「まちなみトラスト」のメンバーの中でも若手なので、トラストの活動については責任者から直接聞いたほうが良いと勧められ、後でまた訪ねることにする。
ちょうどこの時、近所で震災に遭った家屋の修復工事が始まったと耳にし、素晴らしい数寄屋づくりの家屋であることを知っている史さんが見学できるよう交渉くださった。
それで思いがけず住居家屋の中を見学できることに。
家屋はしっかりと残っているものの、内部のところどころ欠損が。
窓の外に坪井川が垣間見える。
昨日の大雨で水が濁っている。
部屋の反対側の窓に立つ。
風情のある瓦屋根。
数寄屋づくりの素晴らしいお部屋も見せて頂き、外に出た。
では次へ…と、トラストの前の道をさらに進む。これから先は私もまだ歩いていない。
これから行く先を聞いた中島さんも興味を抱き、勉強になるから~と参加することになり、3人で歩き始めた。
「あそこはお豆腐で有名なお店で…」と、歩きながら前方を指して説明を始めた史さんが、「あ、○○さん~(お名前失念)!」と、手を振り、歩を速めた。
ここに来るまでも、史さんは実に多くの人々から声を掛けられ挨拶を交わしている。
中島さんと、のんびり史さんの後を追いながら、「史さんは有名人ですね~」と感心すると、テレビ局を辞めた今はフリーで活躍し、毎週テレビに出ているから、町で知らない人はないとのことだった。
史さんは話の流れで昔テレビ局のアナウンサーをしていたとはおっしゃったが、それ以上のことは語らなかった。そんな著名な方が時間を割いて案内くださっているとは…。
追いつくと、史さんは、ちょうど話題にしたお店の前で、行商のおばあさんと立ち話。
おばあさんは魚屋さん。
何十年も、こうやって荷を押して、魚を売り歩いているそうだ。
おばあさんの魚の見立ては素晴らしく、町の人たちはおばあさんが来てくれるのを待っている。
今日の魚は…と、箱を開けて見せてくださった。
方言で魚のことを話すおばあさん。
働く女性の美しい表情。
しばらくすると、また荷を押して立ち去った。
おいくつになられるのだろう。
いつまでもお元気で頑張ってほしい。
おばあさんと別れてから、史さんは、はず向かいの土地を指す。
幌で覆われた家屋の向こうが更地になっている。
震災で倒壊し、取り壊されたとのことだった。
明治時代の古い家並みが見られた場所で、持ち主の清永さんは、江戸時代からここでお店を出していた地元の名士なのだそうだ。
取り壊す前の様子を納めた写真があると、史さんは後日送ってくださった。
それが以下の画像。
私も真正面から撮っておけば比較してみることができたのに残念。
以下は取り壊しの日の様子。
百何十年も大切に守ってきたものをこのように手放さなければならなくなるとは、持ち主も、また町の人々も、心が引き裂かれる思いだったことだろう。
角を右に曲がると坪井川。
「あれがメイハチ橋」と史さん。
橋の上から坪井川を眺める。
右手が唐人町。
ここで再度、唐人町の人々がこの川を使って荷物を運んだ話に耳を傾けた。
その話の合い間に頻繁に登場するこの橋の名、「メイハチ橋」。
「おもしろい名前ですね」と言うと、「明治8年に造られたから、『メイハチ橋』」と。
「へ~、明治8年の『メイハチ橋』…翌年造ったら『メイキュウ橋』」と呟くと、「翌年は造らなかったけれど、明治10年に造った橋がありますよ。『メイジュウ橋』」と史さん。
ひぇ~! なんて素直な命名!
上の画像に見えている橋は後年に造られた「新呉服橋」。「明十橋」は、その向こうにあるそうだ。
橋を渡ると、ある柱に「めいはちはし」と刻まれ、記念銘鈑も置かれていた。
ここは観光名所の一つなのね。
橋を渡ると、ここにもポールで囲った場所があった。
地震で欄干の一部が崩落してしまっている。
もう一度積み上げれば…なんて思いたくなるほど、倒れたまんま。
明八橋を渡り終え、左に回り込むと、すぐそばにまた別の橋がある。
明八橋は人が通れるだけの石橋だが、こちらは車も通る大きめの橋。
明八橋の隣に新しく架けられたことからか、橋の名前は「新明八橋」。
橋の中ほどに観覧用の突起スペースが設けられている。
そこから見た明八橋。
セミが賑やかに鳴いていたのでビデオに撮ってみる。
雨上がりの緑と夏がむせ返る匂いが懐かしい。
欄干にこの界隈が賑わっていた時代の様子を描いたレリーフが。
3枚を並べてみた。
橋を渡り終えると、右手に見える建物にもロープが張られ、赤い紙が見える。
倒壊の危険と、別の紙も貼られ、地面を見ると、地盤ももろくなってしまっている。
ここは町屋街としての唐人町通りの一番西側のお店。
史さんに頂いたパンフレットによると、昔ながらの洋食が楽しめるお店だったようだ。
営業できなくなったお店が他の場所に出店したいとき、政府は補助金を出してくれるのだろうか。そうであってほしい…。
早い再開を祈るばかり。
橋を渡ると、唐人町通りに戻らずまっすぐ進んだ。
「こちらにぜひ」
史さんと中島さんが、左手に見えてきた店に入って行った。
ここは「唐人町」ではなく、「古町(ふるまち)」呼ばれる地区だそうだ。
これから古町散策がはじまる。(その5へつづく)
‐‐‐熊本に行ってみた。‐‐‐
その3 ∞ その4 ∞ その5
その1:熊本駅まで。
その2:唐人町での不思議な始まり
その3:「弟さん」とのドライブ
その4:唐人町散策
その5:古町散策
その6:熊本城から熊本駅まで。